Sociedade Hípica Portuguesa


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- 国名の由来は、ポルトの古い呼び名であるポルトゥス・カレの訛り
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- 公式の英語表記は、Portuguese Republic。通称、Portugal。日本語の表記は、ポルトガル共和国。通称ポルトガル。漢字では葡萄牙と表記され、 葡と略されます。
【ポルトガルの歴史】
- 先史時代とローマ化

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- 現在から35,000年前
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- 現在から35,000年前にはクロマニョン人がピレネー山脈を越えてイベリア半島に進出し始める。紀元前3000年頃に新石器時代に突入すると、この地でも農業が始まった。紀元前1000年頃にイベリア半島に到達したフェニキア人によって青銅器文明がもたらされ、ギリシャ人もこの地を訪れた。当時この地にはイベリア人が定住していたが、紀元前900年頃から断続的にケルト人が侵入を続けた。紀元前201年に第二次ポエニ戦争に勝利したローマ共和国は、それまでイベリア半島に進出していたカルタゴに代わって半島への進出を始めた。先住民のルシタニ人はヴィリアトゥスの指導の下でローマ人に抵抗したが、紀元前133年にはほぼローマによるイベリア半島の支配が完成し、現在のポルトガルに相当する地域は属州ルシタニアとガラエキアに再編された。これ以降、「ローマの平和」の下でイベリア半島のラテン化が進んだ。
- ゲルマン諸王国とイスラームの侵入

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- ローマ帝国の衰退
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- イベリア半島にもゲルマン人が侵入を始めた。411年にガラエキアに侵入したスエヴィ人はスエヴィ王国を建国し、西ゴート人の西ゴート王国がこれに続いた。西ゴート王国は585年にスエヴィ王国を滅ぼし、624年に東ローマ領を占領、キリスト教の下でイベリア半島を統一したが、内紛の末に711年にウマイヤ朝のイスラーム遠征軍によって国王ロデリックが戦死し、西ゴート王国は滅亡してイベリア半島はイスラーム支配下のアル=アンダルスに再編された。アンダルスには後ウマイヤ朝が建国され、西方イスラーム文化の中心として栄えた。キリスト教勢力のペラーヨがアストゥリアス王国を建国し、722年のコバドンガの戦いの勝利によってイベリア半島でレコンキスタが始まった後、868年にアストゥリアス王国のアルフォンソ3世はガリシア方面からポルトゥカーレを解放し、ヴィマラ・ペレスを最初の伯爵としたポルトゥカーレ伯領が編成された。1096年にこのポルトゥカーレ伯領とコインブラ伯領が、アルフォンソ6世からポルトゥカーレ伯領を受領したブルゴーニュ出身の騎士エンリケ・デ・ボルゴーニャの下で統合したことにより、現在のポルトガルに連続する国家の原型が生まれた。
- ポルトガル王国の盛衰

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- 1143年ポルトガル王国成立。
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- ポルトゥカーレ伯のアフォンソ・エンリケスは、1139年にオーリッケの戦いでムラービト朝を破ったことをきっかけに自らポルトガル王アフォンソ1世を名乗り、カスティーリャ王国との戦いの後、ローマ教皇の裁定によってサモラ条約が結ばれ、1143年にカスティーリャ王国の宗主下でポルトガル王国が成立した。ポルトガルにおけるレコンキスタはスペインよりも早期に完了した。1149年には十字軍の助けを得てリスボンを解放し、1249年には最後のムスリム拠点となっていたシルヴェスとファロが解放された。レコンキスタの完了後、首都が1255年にコインブラからリスボンに遷都された。1290年にはポルトガル最古の大学であるコインブラ大学が設立された。また、1297年にはカスティーリャ王国との国境を定めるためにカニーゼス条約が結ばれ、この時に定められた両国の境界線は現在までヨーロッパ最古の国境線となっている。また、この時期にポルトガル語が文章語となった。広大な植民地を獲得したブラガンサ朝は、17世紀から18世紀にかけて植民地、特にブラジル経営を進めることによって繁栄を保とうとし、ヨーロッパの戦乱には中立を保ったが、産業基盤が脆弱だったポルトガルは1703年に結ばれたメシュエン条約によってイギリスとの間に経済的な従属関係が成立した。1696年にブラジル南東部のミナスで金が発見され、ゴールドラッシュが発生したため、ポルトガルには多量の金が流入したが、そうして流入した金の多くはイギリスに流出し、国内では奢侈や建築に使用され、産業を産み出さないまま貴族と聖職者が権勢を奮う絶対主義が続き、ピレネー山脈の北部との社会、経済的な隔絶は大きなものとなった。1755年のリスボン大地震の後、ジョゼ1世の下で権力を握った後のポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョはポルトガルにおける啓蒙専制君主の役割を果たし、工業化や王権の拡大、イエズス会の追放などを行ったが、ジョゼ1世の死後には権力を失った。1777年に即位したマリア1世の時代にもボンパル侯が進めた政策は続いたものの、1789年のフランス革命によってフランス革命戦争/ナポレオン戦争が勃発すると、国内が親英派と親仏派の対立で揺れる中で、1807年11月にジュノー将軍がリスボンに侵攻し、王室はブラジルに逃れた。ポルトガル本国は半島戦争(スペイン独立戦争)に突入し、介入したイギリス軍の占領を蒙る一方で、以後1808年から1821年までリオデジャネイロがポルトガルの正式な首都となり、1815年にはブラジルが王国に昇格し、ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国が成立した。フランスは1811年にポルトガルから撤退したが、王室はブラジルから帰還する気配を見せなかった。
- 近代のポルトガル

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- イギリス軍への不満を背景にした民衆蜂起
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- ナポレオン戦争終結後も王室は遷都先のブラジルに留まり続け、ポルトガル本土ではイギリス軍による軍政が続いたが、イギリス軍への不満を背景にした民衆蜂起により1820年にポルトで自由主義革命が勃発し、この1820年10月革命でイギリス軍は放逐された。翌1821年に招集されたコルテスでは憲法が制定され、ジョアン6世がポルトガルに復帰し、立憲君主制に移行した。ブラジルでも革命を受けてジョアン6世が帰国すると、ブラジル人の国民主義者達による独立運動が盛んとなり、ブラジル独立戦争の末に1822年にジョゼ・ボニファシオらを中心とするブラジル人ブルジョワジー達がポルトガル王太子ドン・ペドロを皇帝ペドロ1世に擁立し、ブラジル帝国が独立した。ブラジルの独立によってポルトガルは最大の植民地を喪失した。戦乱でそれまでの産業基盤が崩壊していたポルトガルにとって、それまで多大な富をもたらしていたブラジル喪失の影響は非常に大きなものとなった。。
【観光地】
- コメルシオ広場

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- リベイラ宮殿があった場所
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- ポルトガル・リスボンにある広場。『貿易広場』という意味である。テージョ川近くにあり、いまだに元の名前テレイロ・ド・パソ(Terreiro do Paço、宮殿広場の意味)が有名である。これは、1755年のリスボン地震で崩壊したリベイラ宮殿があった場所のためである。地震後、広場はポンバル侯の命令によりポンバル街の再建の一部として完全に改修された。
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- 歴史
- テージョ川岸の都市開発は、市の城壁外にマヌエル1世が新たにリベイラ宮殿を建てたために、1500年代初頭に明確に推進された。この一帯は港湾関係の建物が開発され、ポルトガルのアジア・アフリカ・アメリカの海外植民地とヨーロッパの他国をつなぐ貿易を取り締まっていた。
- リベイラ宮殿前の広大な広場(170メートル×170メートル)は、テレイロ・ド・パソと呼ばれ、建築家エウジェニオ・ドス・サントスにより均整のとれた姿に再建された。彼は、広場を広大に、テージョ河に向けて開かれたUの字の曲線の中に四角の形に設計した。建物の1階部分はギャラリーとされ、U字型の2つの終わりの部分には、崩壊したリベイラ宮殿の記念塔を回想させる2つの塔が建つ。装飾の細かい部分は変えられ、広場東塔とアウグスタ通りのアーチだけが19世紀になって完成したが、ドス・サントスの計画はほぼ完全に実行された。広場はコメルシオ広場と名付けられ、リスボン経済の新たな一部となった。広場の均整のとれた建築物は、政府関係の庁舎、港湾・貿易関連の目的で使用された。広場の中心にはジョゼ1世の像が建つ。このブロンズ像は、リスボンで初めて王へ献上された記念像で、当時最高の彫刻家ジョアキン・マシャド・デ・カストロの作品である。アウグスタ通りに向かって広場は開き、他のリスボン旧市街とつながる。エウジェニオ・ドス・サントスが考案したアーチは1875年に実現した。このアーチは『アルコ・ダ・ルア・アウグスタ』(Arco da Rua Augusta)と呼ばれ、ヴェリッシモ・ダ・コスタのデザインである。時計と、栄光の像と呼ばれるヴィリアトゥス、ヴァスコ・ダ・ガマやヌノ・アルヴァレス・ペレイラ、ポンバル侯の像が立つ。
- サンタ・エングラシア教会

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- 国立のパンテオン
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- ポルトガルの首都リスボンにある17世紀創立の教会。20世紀に入ってから国立のパンテオン(名士合祀殿)となり、ポルトガルの著名な人物が葬られている。教会はアルファマ地区にあり、近くにサン・ヴィセンテ・デ・フォーラ修道院がある。現在の教会の建物は、ブラガの殉教者聖エングラシアに捧げられた以前の教会の替わりである。最初の教会は1568年頃、マヌエル1世の王女マリアが後援していた聖エングラシアに捧げられた。1681年、最初の建物が崩壊したあとに現在の教会の建設が始まった。新たな設計者は、王室建築家でポルトガル・バロック期の重要な人物の一人ジョアン・アントゥネスがおこなった。建設は1682年から、アントゥネスの死んだ1712年にかけ進められた。ジョアン5世は教会に興味を失い、大規模なマフラ修道院に資金をまわした。教会は未完成のまま20世紀まで放置された。20世紀半ばになりドームが加えられ、教会は1966年に再び落成された。
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- 建築
- ジョアン・アントゥネスは、サンタ・エングラシア教会にポルトガルで試みられたことのない、精巧な設計を準備していた。教会は、ギリシャ十字の形で中央に引きつけられた平面図をしていた。角には四角い塔をもうけ、ファサードはフランチェスコ・ボッロミーニのバロック様式に似せた。ファサードにはガリレ・ホールと像を据えた3つのくぼみがある。教会入り口には、2人の天使が抱えたポルトガルの紋章を持つ美しいバロック様式の堂々とした正門がある。20世紀になってもうけられた高い中央ドームがある。
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- パンテオン
- 1966年、独裁者アントニオ・サラザール政権時代、サンタ・エングラシア教会は国立のパンテオンに指定された。大統領マヌエル・デ・アリアガ、テオフィロ・ブラガ、シドーニオ・パイス、オスカル・カルモナ、作家ジョアン・デ・デウス、アルメイダ・ガレットとグエラ・ジュンクエイロ、国民的ファド歌手アマリア・ロドリゲス、らの人物が埋葬された。ルイス・デ・カモンイス、ペドロ・アルヴァレス・カブラル、アフォンソ・デ・アルブケルケ、ヌノ・アルヴァレス・ペレイラ、ヴァスコ・ダ・ガマ、エンリケ航海王子らの記念碑もある。
- 発見のモニュメント

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- 大航海時代を記念した記念碑
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- ポルトガル・リスボン市西部ベレン地区のテージョ川岸にある大航海時代を記念した記念碑。ポルトガル語では「パドラオン・ドス・デスコブリメントス」という。
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- 記念碑は52メートルの高さのコンクリート製で、キャラベル船の船首の曲線に似せてある。建築家コッティネッリ・テルモと彫刻家レオポルド・デ・アルメイダが、ポルトガルで開催された1940年の万国博覧会の象徴として制作したものである。独裁者アントニオ・サラザール時代の典型的な、過去のポルトガル栄光の時代へのロマン思想を表しているとみられている。最初に作られた記念碑は、もろい素材で制作されたため、エンリケ航海王子没後500年の記念行事として1960年にコンクリートで再度制作された。彼は記念碑にある像の一つとなり、川を見つめている。エンリケの後方に、その他の同時代の探検家、芸術家・科学者・地図制作者・宣教師らの像が並ぶ。約30名のポルトガル人の像がある。
記念碑の内部にある小さなスペースには、リスボンの歴史を展示している。記念碑の頂上(エレベーターで上がれる)では、ベレン地区やテージョ川の素晴らしい眺めが楽しめる。ベレン地区には、大航海時代の建築物で世界遺産であるベレンの塔とジェロニモス修道院がある。
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- モニュメント前広場のモザイク
- 記念碑正面にある石畳は、多くのポルトガル人航海者が辿った航路を示す世界地図のモザイクがある。このモザイクは、1960年に南アフリカ共和国から贈呈された。なお、世界地図にはポルトガルが「発見」した年が記述されているが、日本の場合ポルトガル人が種子島に漂着した1543年ではなく、ポルトガル船が豊後に漂着した1541年が記述されている。
- ペーナ宮殿

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- 19世紀ロマン主義を象徴する建築
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- 現在、国の文化財となっているペーナ宮殿は、1836年に女王マリア2世の王配フェルナンド2世により建てられた。十分な教育を受けた未来の王フェルナンド2世は、初めて山に登り旧フラデス・ヒエロニミタス修道院の廃墟を目にしたとき、すぐにシントラに一目惚れした。(旧修道院は、ジョアン2世時代にディオゴ・ボイタクにより建てられた物が原型で、すぐにマヌエル1世により、ジェロニモ修道会へ再び寄進し聖ペーナを讃えるという約束を実行するため岩山の上に修道院が再建された)。
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- 歴史
- 1755年のリスボン地震が首都と周辺地域を荒廃させ、ペーナ修道院は廃墟と化した。しかし、ニコラウ・シャンテレネ作とみなされる大理石と雪花石膏でできた壮麗な祭壇背後の棚を備えた礼拝堂は、無傷であった。シントラの山頂に広がるこれらの残骸が、若いフェルナンドを驚愕させたのだった。1838年、カステロ・ドス・モウロス(ムーア人の城、という意味。かつてのムーア人の城の廃墟)と他いくつかのキンタス(別邸)のすぐ隣である旧修道院をフェルナンドは手に入れ、周辺を全て囲いで囲んだ。フェルナンドは、空想的な夢を持っていた。古い修道院を再建し、シントラ滞在時にポルトガル王家が滞在する夏の離宮となる新しい部分を付け加えるのだと。ロマン主義的な再建命令が、陸軍中将であり採掘技師でもあったヴィルヘルム・ルートヴィヒ・フォン・エシュヴェーケに下された。宮殿全体はほぼ、巨大な岩々の上に壮大に立つ。
フェルナンドは、異国風の豊富な種類の樹木を植えてイギリス式公園をつくることを考えていた。このようにすると、公園とペーナ宮は魅惑的な王子と王女が登場する本の世界のようになる。宮殿のとっぴな様式は、バイエルン王ルートヴィヒ2世が建てたノイシュヴァンシュタイン城を見る者に思い起こさせる(ペーナ宮殿が建てられてから30年後に、このバイエルンの城は建設された)。この違う様式の模倣と組み合わせは成功したといえず、マヌエル様式の窓のとなりにムーア風の扉があるといった具合に、しばしば不思議なコントラストを描く。
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- 屋内装飾
- ペーナ宮殿の屋内装飾は、王家の夏の離宮として整備された。すばらしいしっくい細工、トロンプ・ルイユの施された壁、19世紀以来の多種多様なタイルの外装が、おびただしい数の王家の美術品の一部となっている。現在、ペーナ宮殿は一般に公開され、ユネスコ世界遺産の『シントラの文化的風景』の一部として登録されている。時には、ポルトガル共和国大統領と外国からの賓客の公的行事の場として使用される。
- サン・フランシスコ教会

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- 重要なゴシック様式の教会
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- ポルトガル・ポルトにある重要なゴシック様式の教会。バロック様式の内部装飾で知られている。教会は市内の歴史地区にあり、ユネスコの世界遺産に登録されている。
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- 歴史
- ポルトでフランチェスコ会が設立されたのは13世紀である。修道士たちは反感を買い、他の会派に属する聖職者や世俗の信徒から迫害された。ローマ教皇インノケンティウス5世の教書『ブラ・ドエレンティス・アセピムス』( Bulla Doelentis accepimus )が出されるに及んで、修道院としての土地が彼らに寄進された。修道士たちは最初すぐに、聖フランチェスコへ捧げる小さな教会の建設にとりかかった。修道士たちは、ポルトガル王フェルナンド1世の庇護の元で1383年にこの小さな教会を拡張し、ポルトガルの托鉢修道会のための典型的な、簡素なゴシック様式設計でさらに広い教会を建て始めた。この建設工事は1425年まで続いた。教会全体の建設工事は広範囲に変更されず、サン・フランシスコ教会はゴシック建築の良い例となった。多彩色の花崗岩でできた聖フランチェスコ像(13世紀)が入り口隣に立っており、これは初期の時代の遺物である。1833年のポルト包囲が原因で火に包まれ、古い回廊と教会一部の崩壊を招いた。ポーチは、今日のバロック様式に建て替えられた。
興味深いものがサン・フランシスコ教会近くにある。主礼拝堂のそばに、18世紀のネオクラシカル様式のテルセイラ・デ・サン・フランシスコ教会、カーサ・デ・デスパショスがある。これらは美術館となっていて、興味深いバロック内装を持つ。アプスそばには、ポルトの商人が19世紀に建てた、壮麗なネオクラシカル様式のボルサ宮殿がある。
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- 芸術
- 教会のメイン・ファサードは大きく、精巧なバラ窓はゴシック様式である。これだけがファサードの原型部分である。主出入り口はソロモン式円柱のある、今や典型的バロック様式となっている。しかし川と向きあう南側出入り口は今もゴシック様式である。
教会には3つの側廊のある本堂(中央本堂が一番高い)があり、3つの礼拝堂は交差廊とアプスを備える。交差廊中央部分は、交差廊上と主礼拝堂の巨大な窓によって猛烈に光が入る。五角星形型のトラセリーのある主礼拝堂の小さなバラ窓からも同様に日が差す。バロック期の金箔細工が、ゴシック建築の教会と完全に調和していないとしても、バロック期の内部装飾はポルトガルで最も傑出したものの一つとみなされている。この富はフランチェスコ会の清貧さと完全に不一致であり、ポルトの町の聖職者の肉体に刺さるトゲとなって、彼らは信仰のための教会を閉じたのである。
その他に知られるポルトの金箔細工の例は、サンタ・クララ教会の内装である。
【世界遺産】
- ジェロニモス修道院

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- マヌエル様式の最高傑作
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- ポルトガルの首都であるリスボンのベレン地区にある修道院。マヌエル様式の最高傑作ともいわれ、大航海時代の富をつぎ込んで建築された。付近には同じく世界遺産であるベレンの塔や発見のモニュメントが存在する。2007年12月13日に、リスボン条約の調印式が行われた場所でもある。ヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路開拓及び、エンリケ航海王子の偉業を称え1502年にマヌエル1世によって着工され、1511年に回廊など大部分が完成したものの、その後、マヌエル1世の死やスペインとポルトガルの同君連合による中断等もあり、最終的な完成には300年ほどかかっている。その建築資金は最初バスコ・ダ・ガマが持ち帰った香辛料の売却による莫大な利益によって賄われ、その後も香辛料貿易による利益によって賄われた。
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- 英名:Monastery of the Hieronymites and Tower of Belém in Lisbon
- 仏名:Monastère des Hiéronymites et tour de Belém à Lisbonne
- 登録区分:文化遺産
- 登録年:1983年
- バターリャ修道院

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- ポルトガルの独立を象徴する建築物
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- 、ドミニコ修道会の修道院であり、ポルトガル・レイリア地方の都市であるバターリャにある。ポルトガルにおける後期ゴシック建築の傑作であり、マヌエル様式も用いられている。バターリャ修道院は、切妻屋根、尖塔と小尖塔、控え壁によって多くの人々を驚嘆させる。バターリャ修道院は、ポルトガルの独立を象徴する建築物であり、1983年、ユネスコの世界遺産に登録された。正式名聖母マリア修道院(ポルトガル語表記でMosteirode Santa Maria da Vitória)で知られるバターリャ修道院は、1385年8月14日、バターリャ近郊で行われたアルジュバロータの戦いで、カスティーリャ王国軍をジョアン1世が打ち破ったことを聖母マリアに感謝するために建設が開始された。アルジュバロータの戦いは、1383年からカスティーリャ王国とポルトガルとの間で展開された戦争において、ポルトガルの勝利を決定付けた戦いとして知られ、バターリャとはポルトガル語で「戦闘」を意味する。修道院は、2世紀にかけて建設された。建設が開始されたのは、1386年であり、1517年にある程度の完成を見せるが、その間に、ポルトガルの国王は、7人が在位したことになる。
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- 英名:Monastery of Batalha
- 仏名:Monastère de Batalha
- 登録区分:文化遺産
- 登録年:1983年
- トマールのキリスト教修道院

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- 12世紀にテンプル騎士団によって建設
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- ポルトガルの都市・トマールにある修道院であり、12世紀にテンプル騎士団によって建設された。14世紀にテンプル騎士団に対して解散命令が出た後、ポルトガルに存在したテンプル騎士団は、キリスト騎士団へと改編され彼らが管轄することとなった。キリスト騎士団は、大航海時代 のポルトガルを支え、ポルトガル海上帝国の礎を築いたことで有名である。
1983年に、ユネスコの世界遺産に登録された。トマールのキリスト教修道院は、ロマネスク建築、ゴシック建築、マヌエル建築、ルネサンス建築といった様々建築様式が融合した建築物である。
- 1160年に、戦略上の拠点として、トマールに城塞が建設された。ナバオン川に近い丘の上に建設された城塞は、城壁と地下室を兼ね備えていた。キリスト教修道院の地下室は、城塞における住居と司令塔の役割を果たし、テンプル騎士団によって紹介されたポルトガル最古のものである。トマールの町が建設された時点で、ほとんどの住民は、この要塞の中に居住していたとされる。
- 円堂:テンプル騎士団の紹介によって建設されたもう一つの特筆すべき構造物は、円堂(ポルトガル語でRotunda)である。12世紀に建設された円堂は、外側から見ると16角形の構造をしており、鐘楼をあわせて持つ。円堂の内部は、8角形の構造をしており、周歩回廊へとつながるアーチと結ばれている。前述のように、円堂は、エルサレムのオマール・モスクや聖墳墓教会をモデルとしたロマネスク建築である。
- 柱頭:ロマネスク様式の性格を色濃く残しており、植物と動物のモチーフを描写している。柱頭の様式は、同時代に建設されたコインブラの旧大聖堂の影響を受けている。
- 円堂内部:シック様式/マヌエル様式の彫刻と絵画で飾られており、増築は、1499年にマヌエル1世が命じた。中央部の8角柱と周歩回廊の壁面は、ゴシック様式の天蓋で覆われた聖者と天使の彫像で彩られ、一方で、キリストの一生涯を描写したゴシック様式の絵画とパネルで周歩回廊の壁と天井は彩られた。
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- 墓の回廊と沐浴の回廊:エンリケ航海王子は、ゴシック様式の身廊を修道院に増築した。墓の回廊(ポルトガル語でClaustro do Cemitério)と沐浴の回廊(ポルトガル語でClaustro da Lavagem)である。墓の回廊は、騎士団に所属する騎士と修道僧のために建設された墓所であり、優美な2本の円柱の柱頭は、植物をモチーフに描写していると同時に16世紀に作られたタイルで壁は飾られている。また、マヌエル様式のヴァスコ・ダ・ガマの兄弟であるディオゴ・ダ・ガマの墓もある。沐浴の回廊では、かつて修道僧がここで沐浴をしたことから、その名前がつけられた。
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- サンタ・バルバラの回廊:サンタ・バルバラの回廊(ポルトガル語でClaustro de Santa Bárbara)は、16世紀に作られた。テラスの上部には、有名なマヌエル様式の窓がある。マストやロープ、鎖といった大航海時代をモチーフとして用いられている。
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- ジョアン3世の回廊:ジョアン3世の時代に建設が開始された回廊がジョアン3世の回廊(ポルトガル語でClaustro de D. João III)ある。1557年に建設が開始され、完成したのは、1591年のフィリペ1世の時代である。
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- 英名:Convent of Christ in Tomar
- 仏名:Couvent du Christ à Tomar
- 登録区分:文化遺産
- 登録年:1983年
- エヴォラ

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- 学芸の都
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- ポルトガル南東部アレンテージョ地方にある町である。人口は、55,619人。面積は、1307.0平方キロメートルであり、スペイン国境に近い。旧市街は1986年に、ユネスコの世界遺産に「エヴォラ歴史地区」の名で登録された歴史ある街である。ローマ帝国時代からアレンテージョ地方の中心地として栄え、ルネサンスの時代には、大学もおかれた学芸の都でもある。1584年9月には、伊東マンショらの天正遣欧少年使節が立ち寄った街でもある。
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- 主な世界遺産物件
- アグア・デ・ラプラタ送水路:
- 1531年から1537年にかけて、ジョアン3世の手によって建設された送水路。ベレンの塔を設計したフランシスコ・デ・アルーダが9kmに及ぶ送水路を設計した。この送水路は、ジラルド広場が終点である。
- エヴォラ大聖堂:
- 1280年から1340年の間に主に建設されたエヴォラの誇る大聖堂。1335年頃に作られた使徒の像を伴った入り口と美しい教会堂の身廊(en:Nave)と回廊を持つ。(十字形教会堂の左右の)翼廊のチャペルの1つは、マヌエル様式であり、メイン・チャペルは、バロック様式である。また、パイプオルガンと聖歌隊用の部屋はルネサンス様式である。
- エス・ブラス・チャペル:
- 1480年に建設されたムデハル建築とゴシック建築が融合した一例である。
- サンフランシスコ教会:
- 15世紀の終わりから16世紀の初めにかけて建設されたゴシック様式とマヌエル様式が混合した建築物である。長い身廊は、ゴシック建築末期の傑作である。多くのチャペルがバロック様式で装飾されている。
- ヴァスコ・ダ・ガマ邸宅:
- 1519年から1524年の5年間、ヴァスコ・ダ・ガマは、エヴォラに滞在していた。マヌエル様式の回廊とルネサンス様式の絵画が現存している。
- カダヴァル公爵邸:
- 14世紀に出来た建築物で、17世紀にファサードは改装されている。
- ロイオス教会:
- ディアナ神殿の隣にある15世紀に建築された教会。教会と回廊はゴシック様式を採用し、内壁はアズレージョ(en:Azulejo)と呼ばれるタイルワークで飾られている。
- Ladies' Gallery of Manuel I's Palace:
- マヌエル1世によって建てられた邸宅。ゴシック様式とルネサンス様式が融合した建物であり、ヴァスコ・ダ・ガマがここで、インドへの航海を任命されたと伝えられている。
- ディアナ神殿:
- 1世紀に皇帝アウグストゥスを祀るために作られた神殿。
- エヴォラ大学:
- 前述の通り、1559年に建設されたイエズス会の神学校を起源とする。16世紀のマニエリスムの教会と17世紀から18世紀にかけて建設された巨大な回廊がある。
- ルネサンス時代の泉:
- 1556年に作られたルネサンス様式の泉。
- ジラルド広場:
- 街の中心部であり、ドゥアルテ1世が建設したゴシック建築の建築物が現存している。
- アルメンドレス環状列石遺跡:
- エヴォラから15キロメートルのところにある巨石記念物
- ザンブジェイロ巨石遺跡:
- エヴォラから10kmのところにあるドルメン。
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- 英名:Historic Centre of Évora
- 仏名:Centre historique d'Évora
- 登録区分:文化遺産
- 登録年:1986年
- アルコバッサ修道院

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- ポルトガル最古のゴシック様式をもつ教会
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- ポルトガル北部アルコバッサの町にあるシトー会修道院。 ポルトガル語の正式名称はMOSTEIRO DE SANTA MARIA DE ALCOBAÇA 。 ポルトガル最古のゴシック様式をもつ教会をはじめ中世の建築群がそのまま残り、1989年、ユネスコの世界遺産に登録された。ポルトガル初代国王アフォンソ1世の所願により1178年に建築が始められた。フランスのシトー派の影響を強く受けている。修道院の正面ファサードは18世紀に改築されたバロック様式だが、内部はゴシック様式が残り、強い精神性を感じさせる。南の翼廊にはポルトガル文学で悲恋が歌われるペドロ1世と愛妾イネスの墓が並んでいる。
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- 英名:Monastery of Alcobaça
- 仏名:Monastère d'Alcobaça
- 登録区分:文化遺産
- 登録年:1989年
- マデイラ島の照葉樹林

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- 遺存型照葉樹林
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- ポルトガルのマデイラ諸島の主島であるマデイラ島に分布する照葉樹林原生林。ヨーロッパを包み込んだ第四紀更新世における氷河の影響を辛うじて免れた、アトラト山脈北稜(モロッコ・アルジェリア領内);カナリア諸島のゴメラ島のガラホナイ国立公園(世界遺産)を中心とした区域、ラ・パルマ島(特に北東部)、テネリフェ島(北部の狭い区域);アソーレス諸島の一部の島々と並び、氷河期以前のヨーロッパにおける植生分布の典型として貴重である。太平洋周縁と異なり、氷河気候が卓越した中で照葉樹林がほとんど残らなかった大西洋周縁の照葉樹林原生林としても非常に重要。このため正式には「遺存型照葉樹林」と呼ばれている。なお、ポルトガル語名の「ラウリシルヴァ」(スペイン語名「ラウリシルバ」)は、「月桂樹林」と誤訳されることが多いが、実際は月桂樹が優占する単相林ではなく、多様な常緑広葉樹及び常緑針葉樹から成る森林である。
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- 英名:Laurisilva of Madeira
- 仏名:Forêt Laurifière de Madère
- 登録区分:自然遺産
- 登録年:1999年
- アルト・ドウロ・ワイン生産地域

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- 自然環境を上手に生かしたブドウの段々畑
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- ドウロ川の上流に位置し、2000年、ユネスコの世界遺産に登録された。アルト・ドウロ地方のブドウ畑は、斜面を段々畑にしてきた。段々畑を支える石壁の総延長は、数万kmに及ぶ。ここで産出されるワインは、ポート・ワインとして世界的に有名でもある。総面積は、25万haに及び、中核地帯24,600ha、緩衝地帯225,400haから構成される。メザオン・フリオ、ペゾ・ダ・レグア、サンタ・マルタ・デ・ペナギアオン、ヴィラ・レアル、アリジョ、サブロサ、カッラゼーダ・デ・アンシアイス、トレド・デ・モンコルヴォ、ラメーゴ、アママル、サン・ジョアン・ダ・ペスケイーラ、ヴィラ・ノヴァ・デ・フォス・コアの13自治体にまたがる世界遺産である。
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- 近年の考古学調査に基づくとドウロ川流域には、古代より人々が住んでいた形跡があると判明している。そのことは、ドウロ川支流のコア渓谷で発見された先史時代の岩壁画から明らかである。また、ミランデーラの近くにあるブラコ・ダ・パーラ考古遺跡では、3000年前から4000年前のブドウの種が発見されてもいる。しかし、この地域でワインの生産が本格的となったのは、3世紀から4世紀にかけてのローマ帝国時代と推測されている。1世紀には、ローマ人は、アルト・ドウロ地方での農業を展開する上で、ブドウやオリーヴといった地中海式気候に適した植物を導入した。ローマ人は、鉱泉をふんだんに利用し、鉱石を採掘し、道路や橋を建設してきた。19世紀にヨーロッパを席巻したフィロキセラの流行はポルトガルも無縁ではなかった。フィロキセラで被害を受けたブドウ畑を再生させるために有効な手段は、アメリカから台木を導入し、接ぎ木をすることであり、1876年に、この地域でもアメリカからの台木の導入が実施されている。その結果、この地域の景観は回復すると同時に、ポート・ワインの生産も再開されるようになった。
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- 英名:Alto Douro Wine Region
- 仏名:Région viticole du Haut-Douro
- 登録区分:文化遺産
- 登録年:2000年
- ピコ島

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- 最高峰火山ピコで知られるアゾレス諸島の島
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- ポルトガル領。中部群島に属し、アゾレス諸島第2の面積をもつ。島の首府はマダレナ。面積は446km²。島内の人口は約1万5千人。ピコ島はサンジョルジェ島から南に17.5km、ファイアル島から西に7kmに位置する。島は全体に細長く、長さ42km、幅はもっとも広いところでは15kmになる。火山島であり、地形は急峻である。
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- 火山ピコ山:島の南西部に位置し、標高は2351mでポルトガルの最高地点である。成層火山である。最後に観察された噴火は1963年のものである。著名な噴火には、1562年から64年にかけての噴火、1718年および1720年の噴火がある。これらの噴火による溶岩流の跡は、10km以上に達し、現在でも見ることができる。
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- 1980年まで捕鯨基地として使われていた。アゾレス諸島は大西洋の大陸棚の縁に位置し、水深の深いところに近かったため、漁業基地に好適であったためである。現在の主な産業は、観光業、漁業、造船、ワイン製造である。2004年、「ピコ島のブドウ畑文化の景観」はユネスコの世界遺産に登録された。ピコ島で産するワインは、ピコ・ワイン (Vinho do Pico) としてポルトガル政府の原産地統制 (VLQPRD) の対象であり、優れた品質で知られる。
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- 英名:Landscape of the Pico Island Vineyard Culture
- 仏名:Paysage viticole de l’île du Pico
- 登録区分:文化遺産
- 登録年:2004年